08«1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.»10

あれな出来事

変態さんの日常

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

cm --   tb --   page top

女子高生コンクリート詰め殺人事件 

日本少年犯罪史上、最悪と言われた事件がある。


1988年(昭和63年)11月、不良少年ら数人により、アルバイト先から帰宅途中の高校3年生の女子が誘拐された。


41日間にも及ぶ監禁の間、少女に対し執拗、冷酷、残虐極まりない暴行、凌辱の限りを尽くした上に殺害し、少女の遺体をコンクリート詰めにして捨てるという、日本の少年犯罪史上において希にみる凶悪な犯罪があった。




これが世に言う「女子高生コンクリート詰め殺人事件」である。




そのあまりの酷さは、裁判の判決の要旨を見てもらえば分ると思う。

判決要旨の一部

当時高校3年生として、就職も決まり夢ふくらませていた被害者は、それまでの生活とは打って変わった屈辱的な取り扱いを受け、40日間にもわたる期間、孤立無援の状態のまま、繰り返し陰湿・過激ないじめを受け、監禁の後半には、精神的にも、肉体的にも衰弱の度合いを深め、最後には常識では考えられないような仕打ちまで受け入れざるをえず、助けを求めるすべもないまま、あえなく絶命し、揚げ句はコンクリート詰めにされて捨てられるなど、その身体的及び精神的苦痛・苦悶(くもん)並びに被告人らへの恨みの深さはいかばかりのものであったか、誠に、これを表現する言葉さえないくらいである。






ことの発端は、1989年1月、少年2人が強姦と窃盗容疑で綾瀬署に逮捕された。

家裁審理中、少年たちは鑑別所に収監されていたが、彼らの家を警察が家宅捜査すると女性の下着などが見つかったので、


「お前、人を殺しちゃダメじゃないか」と警察が余罪について軽くカマをかけたところ、少年は






「すいません、殺しました」






と言った。驚いたのは警察の方だった。


少年の自白に従って江東区の埋立地で死体の入ったドラム缶が発見される。


被害者の少女の死体はボストンバッグに詰められ、コンクリートを流しこまれて固められていた。


死体はすでに腐敗しており顔の見分けもつかなくなっていたが、ひどく痩せこけて皮下脂肪が半分近くにまで減っており、頭髪がほとんどなかった。


これは長期間なぶられ続けたストレスにより抜け落ちたものであろうと思われた。







膣には小瓶2本(オロナミンC)が押しこまれたままだったという。








被害者の少女は捜索願いの出ていた高校3年生のE子さんであった。


就職先も決まっており、最後の学生生活を楽しんでいた矢先であった。




1988年(昭和63年)11月25日、アルバイト先から自転車に乗って帰宅する途中だった県立高校3年生のE子(17歳)は、突然、バイクに乗った見知らぬ少年から蹴り飛ばされた。

このとき蹴り飛ばした少年がCである。

バランスを失い、自転車に乗ったまま転倒したE子は、そのまま側溝に落ちた。

そこへ、別の少年Aが近づき「大丈夫ですか」と声をかけ、助け起こすと「あいつは気違いだ。俺も脅された。危ないから送っていってやるよ」と言って、近くにある倉庫の暗がりで「俺はヤクザの幹部だ。お前はヤクザから狙われている。セックスさせれば許してやる」と脅し、ホテルに連れ込んで強姦した。


Aは自宅に戻っていたCに電話をかけると、そこにはB(小倉譲…現在は神作と改姓して神作譲)の他にDがいたが、Aはこの3人を外に呼び出した。

その後、4人の少年たちは東京都足立区綾瀬のCの自宅の2階のたまり場にE子さんを連れ込んだ。


少年らはE子を輪姦した。


E子さんは必死の思いで抵抗したが、寝具などで顔面を押さえつけられたため叫び声を上げることはできなかった。

さらにAらは、陰毛の一部をカミソリで剃り、嫌がるE子の性器にマッチ棒を差し込み、火をつけ、熱がるE子を見て興じていた。

11月30日午後9時ころ、監禁場所のC宅のCの母親は、このとき初めてE子の顔を見ている。

Cに対し「早く帰しなさい」と言った。

だが、1週間経ってもE子がいることに気づき、直接、E子に「すぐに帰りなさい」とは言ってみるもののなかなか帰ってくれなかった。








これに関してCの母親は裁判で、

「あの子には家に帰るようすすめました。でもあの子が『いいです』と言ったんです」と証言し、

「脅されていたんでしょう」と検事が突っ込むと、



「認識の違いで、申し訳ありません」



と答えたり、さしたる脈絡もなく「あの女の子は煙草を吸っていた」などと言ったことがマスコミに批判された。

のちにCの両親は批判的な報道に怒り、弁護士を通じて抗議している。

ちなみにCの両親は共産党員。

当初、共産党の新聞「赤旗」に両親の談話と擁護記事(「監禁という認識がなかった」「少女は帰る気がなかった」等のCの母親の自己弁護的記事)が載ったが、やがて事件の詳細が知れるや、両親は離党(除名?)し、同新聞には「この事件は日本共産党とはいっさい関係ありません」という一文が掲載された。

Cの母親は毎回欠かさず裁判を傍聴している。






また、この頃、E子に自宅へ電話をかけさせ「家出しているのだから、私の捜索願いは取り消して欲しい」と言わせている。それも、一度きりでなく、5日ごとに3回に渡って電話をかけさせており、E子の親は家出だと思っていたという。

その後、昼夜の別なく、E子の体を弄び、そのあまりの暴行に、E子が気を失うと、バケツの水に頭を漬けて気を取り戻させて、またレイプということを繰り返していた。

その間、交代で見張りを続けた。

12月初めの午後4時ころ、、E子は少年たちが夜遊びで昼寝をしていた隙を見て、2階から1階の居間に降りてきて110番に電話した。

だが、運悪く、近くで寝ていたAに気づかれてしまった。

すぐに逆探知で警察からかかってきた電話に、Aが出て「なんでもない。間違いです」と返事した。

AとBは、このことをきっかけとして、E子に対し、手荒いリンチを加えた。殴ったり、蹴ったり、手足の甲にライターの火を押し付けたりして火傷を負わせた。

また、シンナーを吸わせたり、ウィスキーや焼酎を飲ませて楽しんでいた。

Aは武田鉄矢の『声援』という歌に「がんばれ、がんばれ」という歌詞があって、いじめているときにそれを歌いながらE子に対し「お前も歌え」と言って歌わせた。




自分たちが何もしていないときにもE子は小さな声で「がんばれ、がんばれ」と自分に言い聞かせているときがあった。




12月5日、東京の中野駅構内で、電車の追突事故が起きた。

AはE子に「あの電車にお前の父親、乗っかっていて、死んだってテレビでやってた。お前見たか」とからかった。

E子は不安そうな表情を見せると「どんな気分だい」と訊き、「悲しいです」と答えると「実はウソだよ」と言ってはぐらかした。


こんな調子でAとB、Cの3人は「死んだ」「生きている」を何度も繰り返し、心理的にE子を追い詰めていった


12月10日ころ、E子は「家に帰りたい」と言い始めた。

すると、Aが「家に帰ったら母親に何て言うんだよ」と言うと、E子は「今まで新宿で遊んでいました」と答えた。

それに対し、Aは「新宿で、学生服のままそんなに長く遊んでいられるかよ」と言って、殴ったり蹴ったりの暴行を加えた。

さらに、火傷の跡にライターのジッポオイルをかけ火をつけた。熱がって火を消そうとするのが面白いと何度も繰り返した。



12月中旬、小便で布団が濡れたことを理由にBとCが殴った。

果てしなく続く殴打によってE子の顔面が無惨に腫れあがり、凸凹のない別人の顔になった。







「なんだお前、でけえ顔になったなあ」

少年らは笑いあった。







暴行がエスカレートするのにともない、E子に与えられる食べ物もおざなりになっていった。

それは主にCの兄の役目であったが、監禁当初は出前を取ることもあったのに、12月末には、1日に牛乳を1本、たまにパン1枚与える程度になっていった。

トイレにも行かせず、飲料用紙コップに排尿させられるようになり、






その尿を飲まされたりした。








E子は「なんでもするから家に帰して」と必死に哀願するが、全裸で踊らされたり、自慰を強要され、さらに、直径3センチの鉄棒や「オロナミンC」のビンを陰部に挿入させられた。


Cの両親は異常な気配に気づいていた。


両親はそれ以上追及すると、開き直られるのを恐れて、2階の物音には耳を塞いでいた。

E子はリンチによる足の火傷が化膿して動けなくなった。

全身は衰弱し、悪臭もひどくなった。Aはその臭いが嫌だと言って、寄りつかなくなった。


少年たちはそんな状態になったE子を見て、持て余すようになっていた。

だが、解放すると警察に知らされる。いっそのこと、死んでくれればと願うようになる。



1989年1月4日、監禁から41日目のこの日、午前6時半ころ、Aは徹夜マージャンで10万円ほど負けムシャクチャしていた。その腹いせとしてAはE子をその対象にした。


B、C、Dの3人はE子の火傷の臭いを嫌ってDの自宅でファミコンをしていた。

AはDの自宅に立ち寄り、3人を誘って、Cの自宅の2階に上がった。

小泉今日子の「なんてったってアイドル」のテープをかけ、






歌詞の中の「イエーイ」に合わせてE子の脇腹に思いっきり殴打する。






E子は、声を出すと殴られるため、痛みをこらえて顔を歪めた。その表情を見て少年達は面白がった。

ロウソクに火がつけられ、E子の顔にそのロウを垂らし、顔はロウだらけになった。

Dは自分の手に血がつくのを嫌がり、ビニール袋(Aがシンナーを吸ったとき使用した袋)を手に巻き、E子の肩や足にパンチを浴びせた。

やがて、E子は身体を硬直し、ブルブルと痙攣し始めた。

Aは1.7キロもある鉄球付きの鉄棒を持ち出すと、DはE子の腹に落とした。

Aが暴力を振るうと、今度はB、C、Dが「ウケ」を狙って、面白半分に暴力をエスカレートさせた。






Aはリンチの途中でE子の死を意識した。







午前10時ころ、リンチが終わった。

AはE子が逃げないように足をガムテープでぐるぐる巻きにすると、4人はサウナに出掛けた。








E子死亡。









翌5日朝、死体の処理に困った少年たちは、死体を毛布に包み、旅行鞄に入れて車に乗せ、近くの工場から盗んだドラム缶に鞄ごと入れてセメントを流し込んだ。セメントは、Aが以前、タイル工として働いていた店に電話をかけて、セメントと砂利を調達して作ったものだった。

そのとき雇主は、「お前人を殺したな」と確信をもって詰寄っている。しかし、警察には通報していない。



午前8時ころ、ドラム缶を海に投棄しようと江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場空き地まで車を走らせたが、恐くなってしまい、その空き地にドラム缶を投げ出して帰ってしまった。










高裁はAに懲役20年、Bに懲役5~10年、Cに懲役5~9年、Dに懲役5~7年を宣告。また監視役の少年3人を少年院送致とした。






2004年7月3日までに、知り合いの男性(当時27歳)を車のトランクに入れて連れ回した上、監禁して殴るけるの暴行を加えて怪我を負わせたとして、逮捕監禁致傷の疑いで、埼玉県八潮市のコンピューターオペレーターの神作譲(かみさくじょう)が逮捕された。



この男は、女子高生コンクリート詰め事件で懲役5~10年の不定期刑で服役し、その後に出所したBであった。



2005年3月1日、東京地裁は神作譲に対し懲役4年(求刑・懲役7年)を言い渡した。


判決理由で菊池則明裁判長は「更生が期待されながら犯行に及んだことは社会に大きな影響を与えた。前の事件を脅し文句に使っており、真に反省し再出発を図ったか疑問の余地がある」と述べた。

一方で「前科が周囲に知れ、更生意欲をそぐことにつながったことも否定できない」とも述べた。

判決言い渡し後、菊池裁判長は「責任を果たしたら今度こそ、本当の意味での再出発を期待しています」と説諭した。その後、被告側は東京地裁での判決を不服として控訴した。


5月13日、神作は控訴を取り下げ、懲役4年が確定した。



神作曰く・・・

「1人殺そうが2人殺そうが同じなんだよ。俺はな、調べられた経験があるから、警察とか検事にどう喋ったら罪が軽くなるか知っているんだ。検事をごまかすくらい簡単なんだよ」



この神作は「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の最終陳述で涙ぐみながら

「被害者が死んだ姿を見ても、自分がこれからどうなるかしか考えなかったが、いまは人のやさしさを感じるようになった。小さいことだと思うが、これを一生、大事にしていきたい」

と自分の気持ちを述べた。





この2つの言葉からも分るように、現在の法制度と照らし合わせて、犯罪を犯した少年に対する更生の限界を考えてもいいのではないだろうか?


少年法においては、少年の保護、福祉という観点から、犯人に対し社会復帰の機会をできるだけ与えることや、刑の教育的、矯正的意義が強調され、死刑、無期刑の緩和、相対的不定期刑の特則等が設けられている。


このことは当たり前のことだが、罪を犯した少年の年齢、資質、前科、前歴、当該犯罪の罪質、動機、手段、残虐性、被害者及び遺族の感情等を総合し、少年の保護、福祉よりも、社会秩序維持を優先させるべき場合にまで、犯人がただ少年であることだけをもって、一律に寛刑(寛大な刑罰)を科さなければならないとする理由はない。


少年法が、少年に対して死刑や無期刑を科する余地を認めているのは、このような考え方に基づくものである。事件の重大性、凶悪残忍性、非人道性を直視し、犯人の責任に応じた厳罰をもって臨むことこそ社会正義を実現する所以である。


少年に対する保護優先主義、寛刑主義の考え方は、行き過ぎると少年に対し法軽視の風潮をもたらし、一般予防の見地からすれば憂慮すべき事態である。




ちなみに名古屋アベック殺人事件の少年Aは、「未成年だから死刑になるはずない」とうそぶいていたが、一審で裁判長は「一片の情状酌量の余地もない」として求刑どおりの死刑を言い渡した。





それでは、少年の育った環境はどうか?


●A 父は愛人宅にいて、家庭は崩壊していおり、夫婦仲に問題があった。Aの中学時代は、柔道に打ち込み、出場した各大会で優勝、準優勝するなどして活躍し、格別の問題行動もなく中学生活を送った。柔道の関係で入学した高校では、練習が厳しく、先輩のいじめを受けたことなどから、入学した年の9月には柔道部を退部し、翌昭和62年3月には同校を退学し、自宅近くのタイル工業所に就職した。


●B 父母の折り合いが悪く、両親はBの幼少時に別居し、Bは母の許で成育し、この間、昭和56年8月小学校4年時に一時父と同居したこともあったが、二か月後に再び母の許へ戻った。中学校時代には、格別の問題行動は見られなかったが、昭和61年1月スキーで右足の複雑骨折をし、以後スポーツで活躍する場を失い、昭和62年4月都内の私立高校に入学したものの、勉学の意欲がなく、次第に怠学が多くなり、同年11月除籍処分となった。その後一時電工見習いとして働いた後、都立の定時制高校へ入学したが、すぐに登校意欲を失い、学籍はあるものの長期欠席の状態が続く。


●C 仕事一筋の父親はきびしい体罰をふるった。Cが決められた家事の分担をしないことなどを母親から相談されると、Cをたたき起こして叱った。泣いて逃げる少年を追いかけて殴ったり、深夜外へ引きずり出して、公園を走らせたこともある。父親は、毎晩酒を飲んで帰宅した。Cとその兄は「週に1回はなぐられていた。ぞっとするほど怖かった」と、弁護士に証言。


●D 父母は、昭和51年10月に別居したうえ、その2年後に離婚し、父は離婚後間もなく死亡しており、Dは姉と共に母の手で育てられた。都立の工業高校定時制に入学したものの、一週間で登校しなくなり退学。その後、何か所かで働いたことはあるが、いずれも長続きしなかった。



・・・と、家庭環境、成育環境等に同情すべき余地がある。



しかし、家庭的に恵まれない少年は社会に多数存在するが、これらの少年でも社会に適合し、犯罪に走ることなく、一般社会人として立派に生活しているのが通常である。


非行に走ったのは、自らの怠惰な性格と意思の弱さに起因するのであって、それを他律的要素に責任を転嫁すべきではない。




私は少年に対して厳罰を望む立場なのだが、その最大の理由は、この「女子高生コンクリート詰め殺人事件」のような凶悪事件を起こした少年に対し、更生の限界が現実にあることを踏まえ、厳罰をもってもぞむ他に対処法がないからだ。


少年にわが子を殺された親たち (文春文庫)
少年にわが子を殺された親たち (文春文庫)


category: バカ犯罪事件簿

thread: 気になったニュース - janre: ニュース

tag: コンクリ殺人  外道 
cm 0   tb 1   page top

コメント

page top

コメントの投稿

Secret

page top

トラックバック

トラックバックURL
→http://hentai7777.blog.fc2.com/tb.php/223-780cb2b1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

まとめtyaiました【女子高生コンクリート詰め殺人事件】

日本少年犯罪史上、最悪と言われた事件がある。1988年(昭和63年)11月、不良少年ら数人により、アルバイト先から帰宅途中の高校3年生の女子が誘拐された。41日間にも及...
まとめwoネタ速neo [2012/06/08 06:24]

page top

プロフィール

月別アーカイブ

最新記事

カテゴリ

ゲームーレヴュー索引

最新コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。